15. 3月 2014 · 結婚生活に埋没していられた はコメントを受け付けていません。 · Categories: 結婚

私はそのパン屋で、離婚歴のあるひとりの父親をいつも見かける。

真っ白の短パンにイタリア製ローファーといういでたちで、金ピカに装飾された白いジープを運転してやってくる、ずんぐりした男だ。
彼は日焼けサロンにかよって、年がら年中オレンジ色の肌をしており、行きつけのゴールド・ジムで鍛えた上腕部は大きく盛り上がっている。
彼は私に、いや女という女に話しかけるが、彼の視線は私たちの目の高さではなく、胸のあたりに向いているのだ。
どんなタイプかわかるだろう。流し目を使い、ものほしそうな顔をしている男。

そして、フランネルのシャシに古びたジーンズという格好の夫が、生きている男たちの中で一番すてきだと思わせてくれる、そんなタイプのことだ。
オレンジ色の男たちは世の中にごまんといるが、おかげで私はここにいる人、
ここで出会い、いま私の家にいるこの男こそ、ずっといい男であることを思い出すのである。



とはいうものの、このような満足感も風の強い日には雲と一緒に流れ去ってしまう。
床から冷蔵庫、流し台、そしてまた床へ、という機械的で退屈な日常がふたたび始まる。
そういうときには、何かが失われつつある気がする、指で触れることができない何かが。倦怠感はなくなっていない。
これがすべてなの?という疑問がわいてくる。

子供たちが赤ちゃんだったころは-ある時期、わが家には三歳以下の子供が四人いた-存在意義を考える時間などなかった。
私はくたくたで、ヒステリックで、また母親になった喜びでいっぱいだった。
息子のシオ、アイザック、ジャック、ゼインとすごすことで、さまざまな考えとは隔絶した純粋な状態が生じていた。
ほとんど一度に生まれたといってもいい、この男の子たちを育てているあいだは、知的エネルギーを一切注がなくても、自由で満ち足りた秒刻みの結婚生活に埋没していられた。

出典元:

Comments closed.